▶︎ 学校の先生や兄姉が塾はいらないと言っていたので利用しない
▶︎ 必要性を感じたことがない
R塾代表の宮本智です。
以下の言葉に聞き覚えがありませんか?
「学校の先生がしっかり勉強を見てくれるから、塾はいらない。」
「俺は〇〇大学に塾へ行かずに合格した。」
まず前者ですが、何の疑いもなしにそう考えたのなら、大変危険です。
発言している教師や先輩を信頼しているからとかそういうことは関係ありません。
一人の人間からの影響を受けて、疑うこともなくそれを自分の判断としてしまうことが問題なのです。
同じ組織に所属する者からであれば2人でも3人でも同じです。
ただ強制的な演習時間を増やしただけの「自称進学校」にありがちなヒステリックな妄言を信用するのは避けたいところです。
オマエ何言ってんだ!!!
演習量増やしてオレが受からせた奴
は沢山いるんだよ!!
できない奴は努力が足りないだけだ!
先生、初登場なのに怒ってる。。
恐怖で押さえ付けることしかできな
い教師は昔からいます。彼らの言葉
に従順になってしまうと成長できな
い人間になってしまうので気をつけ
ましょう。ただ、先生らは他の手段
を取れないほど多忙なんです。大目
に見てあげてください。
また、後者は、確かに余分なお金をかけずに、第一志望に合格したのであれば喜ばしいことです。
しかし、 良い塾に通えば以下を見込めたかもしれません。
- より少ない学習時間での合格
- より上位の大学への合格
- 自分と違う考えの講師や生徒らとの出会い
など、それらに目を瞑り「行かなくても合格した」というのは、支払っていない金額の分、何かを得られなかったとも考えられます。
今後、資格試験や就職、起業する時にも専門家の力を借りる方が優秀です。
取りうる手段を吟味せず、思い込みでそれらを排除するということは、全力を尽くしていないのと同じです。
ワタシはけっこう体験して決めたよ
自分で通える範囲の塾・予備校とオンライン授業を見て回って、利用しないと決めたのならまだ良いのです。
「良い塾がなかった。映像授業も合わなかった。」ならいいのです。
ですが、誰にも助けを求めない、または一人でできると思い込むことは今後の人生においてもマイナスです。
大きな仕事ができるようにはなりません。
学校の先生は高等教育のプロであるかもしれませんが、受験指導のプロではありません。
これは授業以外でも生徒との人格的接触の機会が多いから当然です。
逆に、塾講師は教育のプロではありません(退学と退塾の違いを考えれば明白です)が、受験指導のプロであり、学習指導においても塾講師の方がレベルが高いことがほとんどです。
餅は餅屋へ。受験もプロフェッショナルに任せるところは任せるべきです。
ただ、塾・予備校選びにも注意が必要です。
「お金をもらっていれば全てプロ」という言葉を真に受けているペーペーの大学生講師や、
新しい大学入試制度に対応できない塾や予備校へ行って営業トークにやられて入塾しないように気をつけねばなりません。
また、有名予備校であれば安心という訳ではありません。
「親も行って合格したから」などと安易に考えていると、自分に合っていなかったり、志望校には合格できないとわかる頃には手遅れになってしまいます。
土日の追加講座や、合宿への参加を強制してくるような塾・予備校は避けた方が無難です。
(そういうところはなかなかやめさせてくれません。それはその校舎の人間が、君ではなく上司や会社の数字を一番に考えて話しているからです)
そうだったのか。。
(ちょっとそんな気がしてた!)
どんな塾に行ってたんだろう・・・
こういったものが原因で、学校側に短絡的に塾は不要と言わせてしまっているのかもしれません。
日本の教育界の程度が低いのは周知の事実です。塾・予備校と学校のマウントの取り合いも非常にくだらないものです。
だからこそ、高校生一人一人が主体的に選択をしようとする意識が必要です。
しっかり見極めようとすることが大切なのです。
▶︎ 体験してみて、必要だと思った場合のみ、
必要な分だけ申し込む
48時間以内に実行
自分の考えや方針が元々誰の言葉なのか
思い出し、一旦外して考える
※「教育」「学問」「学習」に関して少しだけ駄文を追加します。少し難しいので必ずしも読む必要はありません。
「教育」は本来、答えが1つしかない問題や基礎知識が先にあり、生徒の学習する権利に対応し、その充足を図るために、受け手の側のことを考えて行われるものです。
「学問」は受け手を意識しない伝達の結果として、学習者自らが問題を設定し、探求し、価値を創造する事を基本とします。
大学は学問、高校は教育を行う機関であり、生徒らはそこで「学習」する主体です。高校では生徒らは学習を「する」ために教育を「受ける」という能動と受動の双方の姿勢を持ちます。
しかし、教師と直接の人格的接触を「受けている」時に、教育を施す者の強い影響力や支配力により、学習する主体としての個性が押さえつけられてしまい、学問の段階へ行っても能力を開発できない者がかなりの数に及ぶ事は否定できません。
現在、高大接続改革など様々な議論がなされ、新システムが導入されている高校もありますが、学力・能力開発・個人の興味のバランスが取れる機関にならなければ、個人を尊重し、個々人の能力が最大限発揮されるようにはなりません。
同時に、偏差値の世界での勝者による議論だけでは何も変えられないとも思います。公的機関や従来の高等学校のシステムでは限界があるのかもしれません。
私たちは高校生が真に求める「学習」を支援し、彼・彼女らに従来の考えでは埋もれてしまうような能力を開発させて、大きな価値を生み出して行って欲しいと考えます。
「教育」「学問」「学習」の摩擦から生まれる大きな歪みを是正させたいものです。
そのために必要なものは何か。
我々も学習者として考え続けています。
賛同していただける同業の方、ぜひご連絡ください。